日々の儀式のために──「ただの人」のための工芸
これまで美術館で取り上げられてきた工芸作品は、大壺や大皿、抹茶碗、螺鈿加飾の漆箱など、目を見張るような技巧や歴史を帯びた品々が中心でした。
確かにそれらは、語るに足るもの、見るべきものたちだと思います。
けれども、振り返って自分の暮らしの周囲を見渡したときに、それらがいかに遠い存在であるかに気付くのです。工芸なのに、使えないものばかり。「これは、おかしいな」と思ったのが、僕の仕事の始まりでした。
そして、手仕事で作られたものが、もっと日々の生活に近くあったらいいのに、と思ったのでした。
こう感じた理由には、たぶん僕が工芸のことばかりではなく、「偉人や英雄」が主人公の物語よりも、社会の片隅にいる「ただの人」の人生に心を惹かれてきた、というのがあるかもしれません。
偉い人の物語は、語るべき出来事にあふれているけれど、それを受け取る側の僕は、どこか話が偉大すぎて、ただただ感心するばかりでお腹がいっぱいになってしまうのでした。
その一方では、名もなき人の、取るに足らないような出来事や物語には、不思議とリアリティが宿っている、と感じてきました。そしてそれがふとした瞬間に、自分の胸の内のリアルとつながることがある。
だから僕は、自分の胸の内のリアルと響き合うような。取るに足らないような出来事、あるいは「ただの人の人生」になにか力付になるようなことを、工芸を通してできないか、と思ってきたのです。
それが例えば、コーヒーを淹れるためのキャニスターであったり、朝食のテーブルに置かれたバターケースだったのです。
どれも、目立つことはないけれど、それがそこにあるだけで、生活のリズムがほんの少しだけ心地よくなる。
そうした道具もまた、取るに足らないものだけど、でも「暮らしの場面」を後ろから、控えめに支えることで、何かの役に立つのかも知れない、と思いながら。
ものを作るという行為は、単なる機能の充足ではありません。
過去の人々の仕事に耳を傾け、素材の声を聞き取り、いまを生きる誰かの生活に、静かに応答すること。
日常のなかに潜む美しさや、生活の手触りに共鳴すること。
それが僕の考える工芸の役割です。
歴史の中心や英雄的出来事の舞台ではなく、その外縁にこそ、見落とされがちな生の価値がある。
僕は、そうした視線を大切にしながら、日々のささやかな儀式を支える器を、作り続けていきたいと思っています。
画像提供:Kazuhiro Shiraishi
