うつわのそれから
三谷龍二
crafts,
and then
–
Ryuji Mitani
ナニカニツナガル
ダレカトツナガル
モシモシ キコエマスカ
一
工芸は自己表現の時代が長く続いた。
でも、もともとうつわ作りは、
料理をする人、食べる人がいなければ用をなさないもの。
一方通行ではなく、つながりのなかで成立するものだった。
そのように暮らしのすぐそばにある、使ううつわのことを
あらためて考えてみたいと思った。
二
個性や自由が、なぜだか以前のような輝きを失ってしまったようにみえる。
それはひとびとが個性や自由を、過度に求めすぎたせいで、
長い間共有してきた価値感を壊し、
それまで柔らかく包み込んでいた、家族や地域のつながりを
バラバラにしてしまったからではないだろうか。
そしていま、ぼくたちは見えない檻に囲われたような、
漠然とした閉塞感をもちながら、とりあえずの自由を、甘受している。
それでも、生きることを諦めないために、
そばにある道具に手を伸ばし
自分という大地に向かって、鍬を振り下ろす。
三
うつわが半分、料理が半分。
使う器は、それくらいがいいのだと思う。
自分の考えで埋め尽くすのではなく、半分は誰かのために残しておく。
余白があるから、新たな思いを書き加えることができる。
作りすぎないように、自分を引いて。
そこで教えていることは、自分の外へと出ることだろう。
ウツワ(空)というのは、自分を空しくすることに通じる。
半分カラッポだから、余韻のようなものが生まれる。
繰り返し、反復を続けることもできるのだろう。
それが、うつわの面白さなのだ。
四
災害や、疫病の流行によって、ぼくたちははじめて、
なにげない日常の大切さを、思い知ることになった。
立ち止まることを知らない、巨大なシステムに巻き込まれながら、
地震が起きる前、鳥たちがいっせいに空へ飛び立つように
ぼくたちは身体のアンテナを立て
今ここにある生命の危機を、感知しなければならない。
工芸は、土、木、草などの素材に触れながら、自然とつながる。
素材の声を聞き、それに委ねることで、自我の鎧を解いていく。
ものづくりでは、どこで手を止めるかが大切だといわれるが、
それは、手を入れ過ぎると、素材の生命が損なわれてしまうからだ。
手は、繊細に、ゆっくりと、
頭とは違う仕方で、世界に触れている。
五
食卓の時間は、辛い日々の苦しみを労ってくれる。
言葉で対立しても、一緒にテーブルを囲めば、和解ができる。
美味しさは、理屈を越えて人をつなぎ、
利他(友は喜び)と自利(自分も楽しい)は、握手ができるのだ。
生活とは、何気ない日々のことだけど、
ひとびとはそれを、何千年も営んできた。
この平凡な日々に、
そして永遠の生活に、祝福あれ。
六
うつわは作られた後、ひとびとのどのような物語に出会うのだろう。
強い自己表現ではない、生活道具だからこそ、
さまざまな関係を生みだし
生活者の日々の底にある、リアルに触れることができるのだろう。
日常を少しでも楽しく、張りのある気持ちで送ることに役立てたら。
そんな当たり前のことばに、思いは重なる。
高尚な芸術など、美術館に任せて、
ぼくたちは足元にあるあたりまえのものから、
美しいものを見つけよう。
喉を潤し、体の隅々にまで力がみなぎる
美味しい水のような、リアルを経験するために。
七
使う人のことを考え、細かなところにまで心を配る、
日本はそんなものづくりが得意な国だといわれてきた。
ある日、修理したいものがあって連絡すると、向こうからAIの音声が応えた。
人を置くことを無駄と考える合理性の世界は、これからもますます広がるだろうが、
その粗雑さや、人に対する冷たさについては、
そのうち慣れると、高を括っているのだろうか。
使う人のことを考え、細かなところにまで心を配ること。
それはすでに時代遅れで、非合理なことなのかもしれない。
でも、体が感じる微細な揺らぎや、ノイズのようなもの
そのような「工芸的なるもの」を、
ぼくたちはこれからも、求め続けることだろう。
八
続けてきた「小さな時間」シリーズ。
大きな物語というつながりを失い、
バラバラに孤立した「個人の時間」のことを、
考えていたのだと思う。
自分の足元にある断片を、拾い集めながら
つぎはぎだらけの物語を、こしらえようとしていたのだ。
そんなぼくにとって救いだったのが、うつわを作ることだった。
うつわには、いつも誰かとつながっているという、喜びがあった。
九
工芸家はいつも自分の手元しか見ていない。
視野が狭いのだ。
でも技術は、繰り返しによって習熟するのだから、
必要な習慣でもあるだろう。
工芸の世界で、守破離というのがあって
過去に学び、新風を疑いながらも、
そこから離れることが大切だ、といわれる。
慣れ親しんだ世界から身を引きはがして
鳥のような眼で、世界を見つめ直すこと。
生活者の視点は、作り手にそれを与えてくれるのだと思う。
十
手でものを作る。それが当たり前だった時代があった。
自分たちの暮らしで必要なものは、自分たちの手で作った。
もちろん労働はきついけれど、そこには喜びもあった。
でもいまは、人が作ったものを、お金で買うようになった。
楽にはなったけれど、働くことの喜びは薄まった。
手間暇かけてものを作ることは
生きることの手応えを、身近に引き寄せることではないだろうか。
どこかで失ってしまった、具体的なものとの関わりを、
ふたたび取り戻すことなのだ。
十一
小さきもの、弱きものに、心動かされる。
真っ直ぐ前に向かって進んでいる人よりも、
迷って、立ち止まった人の、
意図せず見せるなにげない仕草に、愛おしさを感じる。
揺れる眼差し。繊細な手の表情。
ぼくたちの仕事もまた、細部の表情を大切にする。
そして、うつわという小さきものを通じて、
大いなるものに触れたいと、切に願うのだった。
十二
絵でも、映画でも、自分の好きなものを選び出してみると、
ある感情のようなものが、強く心に残るものになる。
そう考えると、思想のようなものより
人の美しい感情のようなものの方が
長く残っていくのではないかと、思うのだ。
十三
暮らすこと
生きること
うつわは、人の暮らしと、
精神を入れるための容器。
十四
一〇年先
きっと、どこかの家で
うつわに美味しい料理が盛られ
その周りには、笑い声が溢れているだろう
著者 三谷龍二
写真•立体•絵 三谷龍二
校閲 牟田都子
デザイン STUDIO NEWWORK
プログラミング 藤本直
オンライン出版 Nalata Nalata
初版は2023年4月に
10センチより刊行されました。