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小泉誠さんの歩く道

家具デザイナー・小泉誠さんの作品は世界中でよく知られている。けれど「彼の素顔や歩んできた道は意外と知られていない」と、Nalata Nalataのスティーブから聞いたとき、うん、たしかに、と私も同意した。

デザイン業界の人たちはさておき、いち生活者の私が小泉さんから連想するのは、木の椅子や琺瑯のケトル、壁掛け時計といった数々のプロダクトと、リデザインを手がけた9坪の狭小住宅スミレアオイハウスだ。ずいぶん前にお会いして、朗らかなその人柄に触れたこともある。

でも、まてよ。小泉さんってそもそも何者なんだろう。キッチン用品から住宅まで手がけるマルチデザイナー? なぜ拠点が東京の国立(くにたち)なの? 途端にいろんな疑問がむくむく湧いてくる。

こうなったら直接本人に聞くしかない。私はJR中央線の国立駅から歩いて20分ほどのところにある、小泉さんの牙城、こいずみ道具店を訪ねた。

古い木造の靴店をリノベートした店舗兼スタジオの1階で、小泉さんは以前と変わらない、やわらかな佇まいで私を迎えてくれた。

まずは新作の椅子tontonについての話をうかがう。その後、はしご階段で2階へ登り、秘密基地のような事務所をわくわく探検。小泉さんが蒐集した古道具などを拝ませてもらって、はしゃぐことしばし。いよいよ本題、“小泉誠物語”の取材となった。

小泉誠。家具デザイナー。1960年生まれ。

国家公務員の父親を持つ小泉少年は、東京都内にある公務員住宅(団地)で母親と姉の4人で暮らしていた。少年期を過ごした60年代~70年代といえば、高度経済成長期のまっただ中だ。

「建設ラッシュだから道路も住宅も、いたるところで工事をしていて。それを面白く見てましたね。小学生のとき、工事現場の手伝いをさせてもらったことがあってね。セメントをこねたら、『がんばったな!』って、10円もらったりして。いま思えば、現場のものづくりが好きだったんでしょうね。自分の原点になってるのかな、と思います」

原点といえばと、小泉さん。子どもの頃に両親の実家で過ごした時間もそうだという。

父方の実家は大阪にあった昔ながらの町屋。母方の実家は奈良の田んぼの中にある民家。

「大阪の家は、続き土間から奥に行くと中庭があって、トイレやお風呂場が外にある、いわゆる古い町屋造り。奈良の一軒家は書院造で縁側があってね。そういう日本の原風景みたいなものを、子どもながらに味わえたことが、なにかしら影響している気がするんです」

土間、柱や梁、畳の座敷、襖と障子、床の間……。日本の風土と生活様式をよりどころにした素材、形、住空間を肌で直に感じた経験は、知らぬうちに小泉さんの素地になったのだろう。

都心暮らしと田舎への帰省というギャップもまた、小泉少年に“なにかしら”を刻み残した。後年、国立に移り住んだことにも関係しているらしい。その話は少しあとでするとして、学生時代の話に戻ろう。

小泉少年は、いつしかサッカー好きの青年へ。高校を出たら大学へ行け、と父親から幾度も説かれたが、反抗期からか天邪鬼な性格からか、従うのが嫌で専門学校へ進んだ。

はじめの2年は音響系の専門学校。いまいち手応えがなく、続いての2年はデザインの専門学校へ。天職を見つけた、と確信したのは木工の授業を受けたときだ。木に触れることで、少年期に抱いたものづくりへの憧れが覚醒したのだろうか。いよいよ「家具デザイナーになる」という夢を抱いた小泉青年は、人生の一歩を踏み出すことになる。

デザイン学校では、人生の鍵となる出会いもあった。当時、講師をしていた建築家の中村好文さんだ。「恩師より、もっと近い存在」と小泉さんが敬愛する中村さんとは、学内外で交流を深め、現在に至るまでずっと関係が続いている。

卒業後は、家具を作る仕事がしたい。と切望した小泉青年だったけれど、家具デザイナーの働き口は皆無。ならばと施工会社の下請けに就職したが、腑に落ちない仕事の連続に心が辛くなってしまう。

中村好文さんから「尊敬できる人のところに行くといい」とアドバイスされ、デザイナーを探すことに。インテリアデザインにはもれなく家具デザインもついてくる、という目論見から、倉俣士郎、内田繁、原兆英といったインテリアデザイナーを目標とした。

最初に向かったのは、原兆英&成光兄弟の事務所。運命か否か、ちょうどアシスタントに空きが出て、あっさり採用。原兄弟の事務所であるジョイントセンターに勤務することとなった。

原兆英さんは、小泉さんにとって、守破離*の“守”を担う人物だったという。

「人としての生き方みたいなものを教えてもらいましたから」と小泉さん。

「たとえば打ち合わせに行くときに、『そんな服装じゃだめだから、今日は参加させない』って言われちゃうんです。君が今日会う相手はどういう人かわかるか? それを考えた上で、その服装か?って。もちろん何も考えていない格好なわけで。そういう礼儀作法からなにから、ひとつひとつ教えてもらいましたね。とにかく厳しい人で、はっきり言うから、全部心に突き刺さっちゃう。ある日、原先生をビルの上から突き落とす夢を見たぐらい(笑)。でもね、本当に尊敬してました。原先生は、僕の基礎を作った人ですね」

オフィスや商業施設のインテリアデザインを手がけていた原兄弟から、仕事への心がまえや生き様も同時に学んだ。

「クライアントの言葉をちゃんと聞いてデザインする人だった。こっちがプロだからと、デザインを押し付けることはなく、逆に相手から言われるがままということもない。クライアントと自分たちだからこそできるものを作ろうと心がけていた。だから流行に左右されないんです。時代に流されないものづくり。それを学べたのは原先生のおかげです」

 

*剣道や茶道の修業における段階を示したもの。 守は、師の教えを身につける段階。 破は、他の師の教えにも従い心技を発展させる段階。 離は、独自のものを生み出し確立させる段階。

1990年、30歳のときに、5年半勤めたジョイントセンターを退社。Koizumi Studioを設立し、小泉さんは家具デザイナーとして独立を果たす。

はじめのうちは中村好文さんの事務所を間借りし、中村さんの仕事を手伝いながら、自身へのわずかな依頼をこなして生計を立てていた。建築と家具デザイン、どちらも手がける中村さんと共に働き、住宅の実質設計や現場管理を任されるうちに、小泉さんはある気づきを得る。

「家具デザイナーって、プロダクト的に家具を作ればいいんじゃない。建築のことがわからないとできない。暮らしを知らないとできない。それがはっきりわかったんです」

たとえばダイニングテーブルひとつデザインするにしても、天板の形やサイズに加え、テーブルを置く場所、壁との距離にまで思いを馳せる。人が通れる余裕はあるか? 心地よい食生活が送れるか? 生活空間を大局的に捉え、使い手の気持ちという情緒的な部分にまで踏み込むのが、家具デザイナーの仕事であることを小泉さんは発見したのだった。

そこから導き出されたのは、「家もまた“家具”である」という自身の理念だ。

「家具デザイナーとは、つまり暮らしの道具作りをする人。“暮らしの道具”と考えると、家も家具なんですよね。だから椅子やテーブルにとどまらず、食器から家まで、すべてに携わるべきだと考えるようになったです」

この気づきは、自邸マンションのリノベーション、スミレアオイハウスのリデザイン、そして40代になってから建築を学び直すことなどにもつながっていく。当時の小泉さんは、まさに“破”(他の師の教えに従い心技を発展させる)の段階。それを支えたのが中村さんだったのだ。

独立と前後して、ライフスタイルにも変化があった。親戚が住んでいた公団にたまたま入居できることになり、東京の西郊、国立へ拠点を移したのである。

90年代初頭、デザイナーたちはこぞって都心の一等地にオフィスを構えた。それがステイタスだった。だから東京駅から電車で1時間近くかかる国立なんて論外、都落ちだと揶揄する人だっていたかもしれない。ところが小泉さん、そんな世間の目はちっとも気にしなかったらしい。

「むしろね、新しいと思えた。当時はインテリアデザインを都心で当たり前にやってたでしょ。だから、自分は新しいことをやってるかもしれないって、すごくポジティブに捉えたんです。たしかに遠いなーとは思ったけどね(笑)」

幼少期にたびたび両親の実家へ帰省していたため、“都会ではない場所”へのシンパシーもあった。

「国立に来てみると、自分の居場所はこっちなんだと思えた。都心って違う国だったんだなー、なんて感じたりしてね。国立から、客観的にいろんなことを眺められたし、自分のスタンスがはっきり見えたんです」

世の中の“当たり前”には目もくれず、感覚の風向きに従った小泉さん。後年同じく国立に、自身の製品を展示販売する「こいずみ道具店」を開いたときも同じだ。

「こんなところで、っていう立地。電車を降りてずいぶん距離もある。でも外国でそういう店を訪れた記憶があって。街を含めて、印象がよかった覚えがあるんです。自分の店もそうなれたらいいなって。ここなら焦らず、思うがままの表現ができると思った」

2000年代以降、郊外や地方に根差す店が増え、若い人たちが地方へ移住することも珍しくなくなった。その潮流の先端に、とっくのとうに小泉さんはいたのである。

さて、国立に移り住んだ小泉さん、守破離の“離”よろしく、“ならでは”を興し、極めていく。ライフワークともいえるのが、メーカーとの協働という型破りな仕事の進めかただ。

きっかけは、38歳のときに味わった挫折だった。ある日、製品デザインを手がけた家具メーカーが、倒産してしまった。

「僕の家具だけが原因ではないけれど、倒産の一端を僕が担ったわけですよね。デザインで関わっていながら、力になれなかった。それがとってもショックだった。いったいなんのためにデザインしているんだろうって考えるようになったんです」

当時は、おもしろいモノ、新しいモノをどんどん作り、それらが売れさえすればいいという刹那的なものづくりが横行していた。メーカーはデザイナーを、成果(売り上げ)をあげる手段と考え、ひとたびモノを生み出したら、さようなら、という関係性。そんな無責任で、持続性のないものづくりに小泉さんは疑問を抱きはじめた。ちょうどその頃に出会ったのが、徳島県に工房を構える宮崎椅子製作所だ。

いまから23年前、2000年のこと。

当時の宮崎椅子製作所はメーカーの下請けで、「ただ物を作らされている状況だった」という。社長の宮崎勝弘さんは、なんとかそれを打破しようと自ら舵を取り、自社ブランドの製品づくりに取り組み始める。そこで声をかけたのが小泉さんだった。

じゃあ素敵な椅子をデザインしましょう、と安易に図面を描いて差し出す。なんてことを、小泉さんはしなかった。まずはメーカーと正面から向き合うべきだと考え、2ヶ月に1回、工場へ通うことにしたのだ。「もうね、結婚するようなもの」と本人が表現するとおり、何度も顔を合わせ、語り合い、互いをよく知ることから、ものづくりをスタートさせた。

いざ、始まったものづくりは“ワークショップ”と呼ばれるユニークなスタイルだった。

小泉さんのラフなスケッチや図面を、宮崎椅子製作所が原寸の模型にする。その試作を囲みながら、小泉さんと宮崎社長、スタッフが作り勝手や使い心地を細かく検証する。図面を直し、改良を加えた試作を再び作る。囲む、検証する、また試作するの繰り返し。尋常ではない時間と労力がかかるけれど、知恵と技術と愛のこもったオリジナル製品が生まれる。当然、ありふれたモノではないから、認知されて売れるまでにも時間がかかる。でも辛抱強く、粘り強く、じっくり作って売れば、やがて長く支持される製品になる。

貫いたのは“持続的なものづくり”だ。小泉さんはそれを「覚悟をもったものづくり」とも呼ぶ。

「結婚して一緒になって、本気で生み出した製品は、子どもみたいなもの。愛情があるから、しっかり手をかけて、最後までちゃんと育てたいでしょう? そのためにはお互い覚悟をもつことが大事なんです」

想定外の産物もあった。「社長の気持ちが変わる。会社の方向性も変わってくる。スタッフの意識も変わる。若い人たちが入って会社が元気になる。どんどんみんなの顔色が変わっていきましたね」

そうした成功体験から、小泉さんは他のメーカーとも、じっくり、ものづくりを進めるようになった。宮崎椅子製作所と同じように、いい成果が次々にあらわれているそうだ。

「何を作るか。ではなく、誰と作るか」

小泉さんは、ものづくりの根っこを、そう言い表す。

「人と一緒に何かを作るのは、自分の喜びでもあるし、スタッフの喜びでもあるし、相手みんなの喜びでもある。喜んでもらえたら、すごくうれしいしね。結局は、人のためなんです」

なんと。静かなデザインに反して、かなり熱いものづくりじゃないですか! と、私が正直に伝えたら、

「そうそう(笑)。熱いんですよ〜。暑苦しいとかね、面倒くさそうだなって思われるみたい」と、小泉さんは愉快そうに声をあげて笑った。

「でもこれからの世の中、明らかに人が減るし、作る人も減る。スピードを落とすか、スケールを変えるかしないと生きていけなくなる。ものづくりにだって、もっとじっくり、気持ちを入れるべきだと思うんです。なぜみんなそれをやらないかっていうと、大変だから。お金もかかる。でもね、きっとその先に何かが見えてくるし、見つかるはずなんです」

合理性、効率性、生産性がもてはやされる世界で、小泉さんはまるであさってな方角へと、ずんずん進んでいる。たぶん国立へ移り住んだときと同じ、その背中からは、なにやら私たちをそそる“新しさ”が、ぷんぷん漂っている。

「余計なことをやるのが大事だと思うんですよ」

小泉さんはそうも話す。効率のそばで、軽んじられ、追いやられ、無視されてきたあれこれを「いかに真面目にちゃんとやるかが、この先、大事になってくるはず」だと。

理想家のきれいごと。そう捉える人もいるかもしれない。でも私は、明るい予見に感じた。遠くはない未来を照らす、たしかな光なのだ、と。だったら光のほうへ進んでみようか。そんなふうに、突き動かされたり、励まされたり、あるいはワクワクしたりする人がいてくれたらうれしい。それこそが、この小泉誠物語の真価であると、私は信じている。

Written by Aya Nihei

Aya Nihei

5月 31, 2023

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